地峡運河委員会
アイコン | 意味 |
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
UFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※地峡運河委員会(Isthmian Canal Commission: ICC)は、アメリカの関与の初期にパナマ運河の建設を監督するために設立されたアメリカの行政委員会である。1904年2月26日に設立され、アメリカが主権を行使していたパナマ運河地帯の管理を任された。委員会は陸軍長官ウィリアム・タフト Secretary of War William Taftに直接報告した。 当初はセオドア・ルーズヴェルト大統領 President Theodore Rooseveltによって任命された7名のメンバーで構成され、15年前にフランスを悩ませた非効率と腐敗を避けるよう指示された。1904年5月6日にセオドア・ルーズヴェルト大統領は、元イリノイ・セントラル鉄道 Illinois Central Railroadのチーフ・エンジニアで、最終的にジェネラル・マネージャーとなったジョン・フィンドリー・ウォーレス John Findley Wallaceをパナマ運河プロジェクトのチーフ・エンジニアに任命した。ウォーレスの年俸は$25,000で、当時の大統領以外の政府職員では最高額であった。技術的な問題、健康上の問題に加えて、ウォーレスはICCから多くの官僚的な挑戦を受けた。ICCは、ウォーレスが運河地帯で行う重要な決定のほとんどを承認しなければならなかったのである。毎週1,000枚以上の作業依頼書を書くエンジニアのために、簡単な仕事でも数ヶ月かかることがしばしばあった。ルーズヴェルトの指示通り“土を飛ばす”ことに加え、ウォーレスはフランスが利権を売却した際に残した老朽化したインフラや設備を使わざるを得ないことが多かった。その後、ICCは技師長ジョン・フィンドリー・ウォーレスの推薦により、3名のメンバーに絞られた。ウォーレスは圧倒され、1905年6月に突然辞職した。1906年、新しい主任技師ジョン・フランク・スティーヴンス John Frank Stevensが任命されたが、彼は委員会のメンバーにはなっていない。彼は、官僚的なICCを深刻な障害と考えるようになり、結局、委員会をバイパスしてワシントンのルーズヴェルト政権に直接要求や要望を送ることになった。ワシントンでは、セオドア・ルーズヴェルトの側近で、運河事業へのアメリカの参加を論説的に強く主張していたジョセフ・バックリン・ビショップ Joseph Bucklin Bishopが、翌年(1905)、地峡運河委員会の事務局長に任命された。ビショップは、委員会の日常業務を管理するだけでなく、広報活動やプロジェクトの正史を残すことによって、運河に対する国民の支持を確保する任務を負っていた。ビショップが約束した年俸$10,000は、ルーズヴェルトの反対派議員から執拗な批判を浴びたが、その理由の殆どは、自分達の収入の2倍であったからだ。反対派の新聞も一緒になって批判した。1907年の夏、ビショップの任命にまつわる縁故採用の疑惑が高まり、パナマ運河建設の予算が脅かされると、タフトはルーズヴェルトの静かな同意を得て、ビショップをワシントンからパナマに移すよう命じた。ビショップはタフトに、“私はあなたの決定を不本意ながら受け入れ、悲しむことなく、喜んで地峡に向かうことにします”と告げた。前年秋、ビショップはルーズヴェルトの歴史的な視察旅行(現職の大統領が初めてアメリカ国外を旅行した)を先取りしていた。1907年、地峡運河委員会は、ワシントンやアメリカ国民を満足させるため、写真家のアーネスト“レッド”ハレン Ernest "Red" Hallenに運河の進捗状況を写真に収めるよう依頼した。ハレンはその後30年間、運河の建設と日常生活のすべてを記録し続けることになる。ジョセフ・バックリン・ビショップは、1ヶ月の夏休みを除いて7年間地峡に留まり、当初はセオドア・ルーズヴェルトの“目と耳”として密かに活動していた。彼は、陸軍工兵隊 Army Corps of Engineersのジョージ・ワシントン・ゴーサルズ大佐 Colonel George Washington Goethalsと彼のチームが“大きな溝”を掘削し、ダムや閘門を建設している“驚くべき”進捗状況を報告した。やがて、ビショップはゴーサルズの信頼できる側近となり、不平や不満を持つ労働者達に対する第一線の防御者として活躍するようになった。しかし、ビショップのパナマでの最大の功績は、パナマの何千人もの労働者のための週刊紙「キャナル・レコード The Canal Record」を創刊し、ライヴァル会社の掘った立方ヤードの量や、野球の試合等を定期的に報道し、労働者の士気と生産性を高める健全な競争心を高めた。また、「キャナル・レコード」の“良いニュース”は、本国の新聞の社説や、運河プロジェクトを前進させるために毎年予算が必要とされるアメリカ議会の場で、国民の重要な支持を得ることになった
- ※データは識別番号船ゴーゴナ級の項を参照
船名 | NAME | 造船所 記号 |
オフィシャル ・ナンバー |
建造所 | 引き渡された日 | 備考 |
ゴーゴナ (1、2) |
Gorgona | 643 | 213000 | スタテン・アイランド・スチーム・ボート社 (スタテン・アイランド・シップビルディング社?) |
1915 | ◎1917/7/23 海軍に移管 ◎退役後、地峡運河委員会に移管 ◎1949 Equatorialと改名 ◎1965 処分 |
タヴァーニラ | Tavernilla | 644 | 212932 | スタテン・アイランド・スチーム・ボート社 (スタテン・アイランド・シップビルディング社?) |
1915 | ◎1917/7/19 海軍に移管 ◎1919/2/8 地峡運河委員会に移管 |
Update 23/05/03